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66年生まれ、67年生まれの筑波大学サッカー部 2008.10.05

作陽の監督の野村雅之
東京都生まれ、広島県育ち
1983年広島国泰寺高校のゴールキーパーとして吉田安孝らとともに高校選手権出場。1988年筑波大学に進学しサッカー部で活躍。中山雅史、井原正巳らが大学の一年後輩。森山佳郎(サンフユースの名物監督)と同期。

66年生まれ、67年生まれの筑波大学サッカー部にはなんと濃い選手が集まっていたことか。
この経験が監督としての深みをつけたんじゃないかな。

森山 佳郎(もりやま よしろう、1967年11月9日 - )は熊本県熊本市出身の元サッカー日本代表選手(DF(右SB))、サッカー指導者。豊富な運動量とガッツ溢れるプレーで活躍。国際Aマッチ 7試合 0得点(1994)

現サンフレッチェ広島ユース監督。
サッカーでは無名の熊本二高から、一浪し大学サッカーの名門筑波大学へ進学。そのため井原正巳、中山雅史は同じ歳であるが、彼らは森山の一年先輩である。

卒業後は大学の先輩・今西和男のスカウトもありマツダサッカークラブ(現:サンフレッチェ広島)に入団。同期は森秀昭、柳本啓成、笛真人、路木健、松山大輔、小倉一浩。入団1年からJリーグプレ開幕戦として開催されたナビスコ杯に出場するなど順風満帆なスタートを切った。翌1994年サントリーシリーズでは、広島のステージ優勝に貢献するなどの活躍が認められ日本代表に選出されるまでになった。翌1995年、この年より監督に就任したビム・ヤンセンの評価を得ることができず出場機会も減少。この年限りで広島を退団。その後横浜フリューゲルス、ジュビロ磐田、ベルマーレ平塚でプレー、平塚時代ではキャプテンも勤めた。1999年のシーズンをもって引退。

引退後は、海外へコーチ留学を行おうとしていたが、今西に誘われ、サンフレッチェ広島ユースのコーチに就任。2002年8月に当時ユース監督であった中村重和のアビスパ福岡監督就任に伴い、同ユースの監督に昇格。日本クラブユースサッカー選手権の2連覇などユース屈指の強豪へ育て上げたとともに、トップチームで活躍する選手を育成するといった指導者としての評価も高い。

エピソード
現役時代から、愛称は「ゴリ」。「『監督』と呼ばれるのが照れくさい」こともあり、現在監督を務めるサンフレッチェ広島ユースの選手にも「ゴリさん」と呼ばせている。
横内昭展・吉田安孝と共に現役時代の1993年ごろに「サンフレッチェ劇団」を結成、当時の選手の結婚式披露宴で数々の余興を披露していた。横内は一線を退いたが、2007年1月に行われた森崎浩司の結婚式にて盛田剛平が新たに参加した。
Jリーグ開幕年である1993年サントリーシリーズ・浦和レッドダイヤモンズ戦で、決勝点となるJリーグ初ゴールを記録した。その際、喜びのあまりユニフォームを脱いで喜びを表現したが、これが非紳士的行為ならびに遅延行為とみなされイエローカードを貰ってしまった。これは森山を語る上では欠かせないエピソードである。「やったね!ラモズくん」ではパロディ化された。
1994年サントリーシリーズで優勝が決まった際にチェアマン杯破損事件が起こったが、この時にチェアマン杯を割ったと勘違いされたという。
現役時代ペナルティーキックを大の苦手とし、自身もPKを苦手とするサンパイオにさえ「モリヤマ、ゼンゼンダメ」とインタビューでネタにされていた。
ユースのために使うため勉強する時間がないこと、トップチームの指導をする気がないとのことからS級ライセンス講習を受けるつもりがないとのこと。A級ライセンス講習も受けていないようである。2005年、ドイツでのユース大会には高田豊治監督(S級持ち)、森山コーチとして参加していた。
「気合と根性」が口癖。
2003年高円宮杯でその年の高校総体準優勝チームである帝京高校と対戦、朝日新聞が企画で双方の監督にインタビューした。その中で古沼貞雄監督がクラブユース勢に対して辛らつな意見を語った。これを見た森山は発奮、同年9月28日対戦前にこのインタビュー記事を選手達に見せ奮起させ、見事6-0で勝利を収めた。

所属クラブ
熊本市立東町小学校
熊本市立錦ヶ丘中学校
熊本県立第二高等学校
筑波大学
1991年 - 1995年 マツダ/サンフレッチェ広島
1996年 - 1997年 横浜フリューゲルス
1998年 ジュビロ磐田
1999年 ベルマーレ平塚

指導経歴
2000年 - 2002年7月 : サンフレッチェ広島ユースコーチ
2002年8月 - 現在 : サンフレッチェ広島ユース監督
2005年インタビュー
「高校時代にこんな指導者にめぐりあっていたら良かったのに」 彼と話しているとそんなことをふと思わされる。20歳ほど年下の選手たちから愛称で呼ばれる体育会系の指導者はそう多くはないはずだ。ゴリさんこと森山佳郎広島ユース監督は、そんな希有の存在。ただ、選手との関係は決して甘えたものではなく一定の基準をもった厳しさを保つ。その証拠に監督就任4年目で、クラブ三冠と言われる大会全てのタイトルを取り、一昨年の高円宮杯では平山、兵藤、中村北斗らを擁した国見高校に1-0で勝利も収めている。 昨年は6人(うち一人は新潟)をプロへと送り込み、下部組織としても文句なく機能している広島ユース。彼等の強さの秘密を探った。
Q:近頃、高円宮杯2年連続でクラブのユースチームが優勝するなど、クラブユースが元気な印象があります。
「Jリーグのいいチームのユースが少しずつ形になってきているのかなと思います。まだ(約)10年じゃないですか、Jリーグが始まって。特にユースはこの10年でようやくそれぞれの形みたいな、伝統みたいなものができ始めてきたのかなと思います。ずっと歴代の監督の皆さんがやってきたことが、周りからかなり認知してもらえるようになって、うちはこういうチームでというのが明確になってきて、それが他のチームに関してもそうだと思うんですよね。(各クラブとも)色がでてきた、そういう時期だと思います。」
Q:森山監督は、就任4年目。すでに結果も相当出されていますね。
「ちょうど一昨年が、(ユースチームの)スカウトをちょっと頑張った時の子らが2年生になった時で、その年が外から選手を採ってくるということを初めて本格的にやった年です。その次の年からはあんまり採ってないです(年2~3人)。それでも勝って、今年もそこそこ結果をだした感があります。今年は3年生が7人しかいないのですが、そのうち一人は受験勉強をしていて、また二人がユース代表に呼ばれたり、今年はかなり(チームとして結果をだすのに)厳しい年だったのですが、そこそこは頑張れたのでまた来年楽しみだなって思っています。」
Q:その年は意図的にスカウトを頑張ったのですか?
「そうですね。その時はスタッフがかなり力を入れて(笑)。やっぱり、プロに入る年代のところでのスカウトで勝負しようと思っても難しい部分があるので、やっぱり、サンフレッチェの考え方を高校3年間で植え付けて活躍してくれる子を早めに呼んできて、トップとの繋がりを持たす中で育てて、上につなげないといけないんじゃないかという思いがありました。でも実際はジュニアユースから上がってくる選手が多く、純粋に高校年代から採るっているっていうのはそんなに人数は多くないんです。だからそういう意味でもこの10年で、育てるということが形になってきたかなっていう時期ですね。スカウトもしているけど、下から育っている部分を見落としてもらっちゃ困る(笑)。」(実際に、この4年間で6人ジュニアユース、ユース、トップと昇格している)
Q:ご自身が就任しての4年を振りかえっていただけますか?
「一番良かったのは、一昨年、前田(俊介)たちが2年の時のサッカーが素晴らしかったですね。前田がケガしていたから、前田がいなかったときの03年シーズンのサッカーは美しさがあった。誰がみてもすごいって言ってくれたのが03年の高円宮の時で、平山、兵藤、中村がそろった国見にも勝って。でもその次の試合(ベスト4 対静岡学園戦)でたまたまテスト期間中で。僕も経験が浅かったから『勉強せーや』って勉強させたら全然走れない。テストで成績が悪いとサッカーさせないというのがあって、子供らが毎日夜遅くまで勉強しながら高円宮杯に臨んで、それで寝不足だったり、後半に足が何人もつりだして、そんなの始めてみて、パニックになって負けてしまった。」
Q:高柳君なんかもあの時は負ける気がしなかったって言ってました。
「そうですね。その頃は前田も怪我をしていてチームサッカーが出来ていたというか。で、前田がその後もどってきてまた別のサッカーになったというか。」
Q:彼は圧倒的な存在だったんですね。
「っていうか圧倒的にしないといかんな、ってね。持っているものは圧倒的に違うので。そりゃ、あいつが入っても同じようなサッカーをさせれば出来ないことはなかったけど、前田に『はいここワンタッチで』っていったら前田がダメになる。まあ俺がそういってもどうせ持つだろうけど、もう『持て!』って言ってとことんいっちまえ!みたいになって。そうなってくるとサッカーが変わってくる。それで去年はその世代が3年になって、結構自分たちをアピールしながらやるんで、それならそれで圧倒して勝てみたいな感じでしたね。今年はその3年生のうち6人がプロにいったので、今年もチームでやりたいんですけど、2年生に平繁みたいのがいるじゃないですか。今年も来年もあんまり流れるようなサッカーはできないかな、みたいな。もうこれは平繁がいるから仕方がない。チームでいいサッカーをするのが目的じゃないから。自分自身は流れるようなサッカーが好きなんですけどね。」

2001年「Off the Pitch」取材
サンフレッチェ広島 ユース監督(2001年取材時:ユースコーチ)
森山佳郎さん
モリヤマ・ヨシロウ
1967年、熊本生まれ。熊本二高を経て筑波大学。91年マツダSCに入り、サンフレッチェ広島でJリーガーに。その後横浜F、磐田、平塚で活躍。94年日本代表に選出。99年現役を引退し、現職に。
引退後のことを考えパソコンスクールにも通学
 そもそもサッカー有名校の出身でもなく、大学へも一般入試で入学。しかも4年になって初めてレギュラーになったくらいでした。Jリーグが発足し、プロになってからも、自分ぐらいの力の選手は、周りにいくらでもいるという気持ちは、心のどこかに常にありました。
 だからこそ人一倍練習に励んだし、それが選手としての成績にも結びつき、日本代表にも選ばれたんでしょう。しかしその一方で、現役を引退したらどうすべきかということについては、いつも真剣に考えていました。指導員の資格を取るための講習にも熱心に出てましたし、一般企業で働くことを考えて、パソコンや英会話のスクールに通っていたこともあったくらいです。
 もちろん選手の多くがそうであるように、引退後はコーチか教員、というのが第一志望でした。しかしそう簡単になれるものでもないということもわかっていました。そこで引退を決めたときには、もう少し勉強しようと、英国リバプール体育学校への留学を決めていました。プレミアリーグを見ながら、英国のコーチ資格を取れればと考えていたんです。

サッカーに真剣であれば見ていてくれる人は必ずいる
 そんな折、たまたま、お世話になった方に引退の挨拶をしたら、広島でユースコーチの欠員が出るとのこと。渡りに船ではありませんが、せっかく希望していたことでもあるので、留学を急遽とりやめ、そのお誘いに乗らせてもらったんです。
 確かに、現役時代から将来のことを考え、コーチ資格の取得などに取り組んでいたことは大きかったでしょう。しかしその一方で、練習や試合で決して手を抜かず、常にベストを尽くす。そんな貪欲かつ真剣な姿勢で、サッカーに取り組んでいたからこそ、コーチという仕事の誘いもあったんだと思っています。
現在の仕事に就くまでの軌跡
87年4月 熊本二高を卒業し一浪の後、筑波大学へ。高校時代に華やかな活躍があったわけでもなく、受験も一般入試だった。
90年4月 仕送りを補うために続けていた深夜バイトをやめ、それまで以上に「練習の虫」に。その結果4年で初めてレギュラーとなる。
91年4月 東洋工業に入社し、マツダSCで活躍。しかし2年目にはすでに引退後のことを考え、コーチ・ライセンスの取得に励む。
92年4月 サンフレッチェ広島発足と同時に加入、Jリーガーになる。
94年8月 日本代表に選出。チームの1stステージ優勝にも貢献する。
96年1月 横浜フリューゲルスに移籍。
98年1月 ジュビロ磐田に移籍。
99年1月 ベルマーレ平塚に移籍。後期から主将となるも、持病の左ひざの変形性関節症が悪化。引退を決意。
00年1月 若手を先導・叱咤してきた経験と、ライセンス取得が認められ、サンフレッチェのユースコーチに就任。

二世選手
風間宏希、宏矢(風間八宏)、都並優太(都並敏史)、森保翔平(森保一)、ハーフナー・マイク(ディド・ハーフナー)水沼宏太(水沼貴史)高木俊幸(高木豊)
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